ほっと一息コーナー

2026年7月11日

  長谷寺の奥の院に紫陽花が咲き誇っています。

先日長谷寺にお参りに行ってきました。遠くに見えるお堂は本長谷寺と呼ばれ、長谷寺の開元の時ここからが始まりだったようです。その復元のお堂が建っています。

 暑い日でしたが長谷の山の中で荘厳な雰囲気の中どこからともなくお香のいい香りがしてきて、仏の御手の中に守られているかのような錯覚におちいるほどに満たされた気分になりました。「汗をかきかき登ってきてよかった」と思いました。良い一日でした。

 運動のコーナーで書かせていただいているウォーキングの時に公園で咲いていていつも目に付くのがこの「合歓の花」です。不思議な花弁なので目が行ってしまいます。

 奥の細道のなかに新潟を訪れた松尾芭蕉が「象潟や 雨に 西施が ねぶの花」と詠んでいます。西施は中国春秋時代の越の女性で絶世の美女であったために国に利用され、最後は魔女のような存在として恐れられ生きたまま皮袋に入れられ長江に投げ捨てられたと言い伝えられています。芭蕉はこの合歓の木の花に薄幸の女性、西施の面影を想像し、西施の不幸、はかなさ延いては人のはかなさを嘆き、そのはかなさの中に美しさをみていたのかもしれません。

長谷川を眺めに行ったときに、近くでいつもお世話になっている画家の先生の展示会をされていたので拝見させてもらいに行きました。画伯は長くこの長谷に在住され、地元の風景や月ヶ瀬、伊賀、北陸など旅され現地でスケッチされてアトリエで油絵を描かれてきました。また、フランスやイタリアなどヨーロッパ、アメリカを周遊され書き留めたスケッチをもとに描かれています。たびたび展示会を開かれていています。今年(2026年)90歳になられ依然として制作意欲は衰えてはおられません。剣豪でゆうなら宮本武蔵ではないでしょうか。

2026年7月5日日曜日の午前に長谷寺の近くを流れる長谷川を観に行ってきました。梅雨の長雨で水量は増していて濁っていましたが、雨の長谷川は風情がありました。赤色の欄干から写した写真です。

 その後長谷寺に向けて歩いていきましたが、道々雨が強くなり途中で残念しました。

 1689年ごろに松尾芭蕉もこの地を訪れ「春の夜や 籠り人

ゆかし 堂の隅」という歌を「笈の小文」という旅行記の中で詠っています。芭蕉もこの長谷川の流れを眺めた後、長谷寺に上っていったのでしょう。流れる水は久しからずではありますが、芭蕉の境地に少しでも近づくことができればうれしいことです。

 吉野の蔵王堂へ続く道です。日本の過去の景観が残っているきれいな風景です。

 風景そのものが文学作品だと思われます。

映画では金田一耕助が歩いてきそうな風景です。浅見光彦はきたかもしれない。浅見光彦シリーズの作者である内田康夫氏が推理小説 天河伝説殺人事件の取材で来られたらしい。

宿泊された旅館が残っています。

 古くは後醍醐天皇、帝の家来である楠党の地侍たち。帝に敵対する高師直の大軍勢、豊臣秀吉の花見が開かれたのもこの地であり徳川家康、伊達政宗、石田三成などそうそうたる方々がこの地に集まったことを空想するとため息が出る。今は兵どもが夢のあとでしょうか?

 平安時代、西行法師もこの道を通り奥千本の修行場に向かわれたのだろう。その軌跡を訪ねる松尾芭蕉の姿もきっと、この道の上に見られたことだろう。西行法師の短歌とその生き方を慕う芭蕉は西行に時代を超えて遭遇したかったに違いない。 感慨深い街です。

 この吉野町のひとつ山を越えた宮瀧の地は飛鳥時代に持統天皇がたびたび訪れた地があります。当時の人々にとってこの吉野町も含め自然に囲まれた神秘的で、魅力的な地だったのでしょう。

(下記からの続き)

 甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)の本殿向かって右側に「立石」と呼ばれる謎の石が立っています。この石の前で「盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)」と呼ばれる「神明裁判」を行っていたと伝わります。

 現在で言う、裁判所の機能を持っていたといえるのではないでしょうか。でも、熱湯の中に手を入れたらだれでも火傷を負うことになってしまうのではないかと考えます。神が昔は人間の近くにおられ、頼みごとが正しければ確実に実現してくださったのでしょうか?

 この地も大陸の百済からの渡来人が多く住んでいたことが日本書紀に書かれてあるので、古くからさまざまな神事や文化的なことが多く行われており、いろんな考え方と思いが人の往来とともに入ってきた土地だとゆことは言えると思います。

 

令和2年11月8日撮影

 明日香は甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)に行ってまいりました。甘樫丘は飛鳥寺のある東側をよく散策していましたが、今回甘樫丘西側の地を訪れてみました。

 甘樫坐神社は武内宿禰の創建と伝わります。

 ここが飛鳥時代の裁判所ではないかと興味を起こさせた文献によると、対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。(神明裁判) (上記に続く)

 

令和2年(2020年)11月1日日曜日撮影

 明日香にある檜隈寺跡に行ってきました。飛鳥時代に渡来人(とらいじん)である東漢氏(やまとのあやうじ)氏寺(うじでら)であったと説明文がありました。現在(げんざい)は、於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内(けいだい)になっています。平安時代(へいあんじだい)十三重(じゅうさんじゅう)石塔(せきとう)(重要文化財(じゅうようぶんかざい)。 )-写真左から二つ目-が()っています。

平安時代からずっと立っているなんて言われても信用できますか?

 写真左の鳥居は大正時代の建立です。

 そのお寺跡を南に行くと農業体験のできるところがありまして五穀米も展示されています。-写真右端-

 そこは葛城山丸見え-写真左から四つ目-のよい散歩コースになっています。一度行かれてみればいかがでしょうか。

 古代の人が味わった雰囲気を少し味わうことができるかもしれません。

 

2019年3月24日撮影

 小高い山の右に見えた鳥居のところにやってきました。小高い山の上に鎮座されておられる神はわかりませんでしたが、その神社の裏山に墓地を抱いているお寺もあり、まさに神仏集合の形態をとる、古来地域の信仰の拠点になっていた所ではなかったでしょうか。今はお寺にお彼岸参りの参拝の方がちらほらおられ、神社には人影はなく動物の気配もないくらいひっそりとしていました。

 ここがひょっとすると大津皇子の邸宅跡ではないだろうか、という思いが湧いてきました。高貴な方の邸宅跡や関連のある地は神社やお寺に姿を変えている所が多くあるのです。祟りを恐れたり、以前の主の霊の鎮魂を目的にして神社やお寺を建てその地を浄化する意味があるのでしょう。また、この神社の鳥居は東側にあり、東側に出入り口があることは珍しいといえます。ほとんどの神社は西側に鳥居があり出入りは西に設置されているのが普通です。ちょうど二上山を拝む形で神殿が備えられているのも何か深い理由があるように思えてなりません。二上山の雄岳には大津皇子の御陵があることと無関係でないように思えます。

 大津皇子の邸宅跡がここに、もしくはこの近くに存在していたことは間違いがない。皇子がこの地で自害し、残された妃の山辺皇女は髪を振り乱して泣きながら半狂乱になって、亡くなったと日本書紀に見ることができます。私は独り、この静かな木立ちの中で、きっとこの階段を駆け下り山辺皇女は亡くなったんだと想像してみるのでした。

 

2019年3月24日撮影

 前回に続いてほっと一息コーナーは悲劇の宮様、大津皇子がテーマです。

 磐余池跡に今回もっと近くに行くことができました。今は田んぼになっていますが、5世紀ごろは人工池が写真の本手前にあり前方の小高い山が浮き島のような役目をなし、この辺に立ち並ぶ高貴な方々の邸宅から眺めることができ、その庭園のよい借景になっていたのでしょう。

 この磐余、おさだの地は飛鳥や藤原京にも近く、多くの貴族たちの住宅地だったことを私は想像しています。きっと天武天皇第3皇子である大津皇子の広大な邸宅もこの近くにあったことでしょう。

 私は大津皇子の邸宅がどこにあったのかぜひとも知りたい気持ちが、この地に立って以前よりも強く湧いてきました。24歳で亡くなった大津皇子はどんな方だったのか少しでも理解したいと思いました。

 そんな気持ちになっているとき、ふとこの小高い山の右側を見ると神社の鳥居が見えました。私は、ふとそこに行ってみたくなりました。つづく

 

2019年3月9日(日)撮影

 遠くに畝傍山を望むこの地は磐余池跡です。飛鳥時代この地に磐余池という池があったという伝承が残っています。今は田んぼになっています。

「ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」という大津皇子の辞世の句が残されています。

 この池沿いに大津皇子の邸宅がありました。謀反の疑いで飛鳥からの軍が攻め込んできて彼の館は猛火に嘗め尽くされたことでしょう。奥さんの山辺皇女は髪を振り乱し、裸足になって駆け出し殉死されました。

 この地は飛鳥時代の政権に翻弄された、若い家族の悲劇の舞台なのです。

2019年3月9日(日)撮影

 今回は桜井市吉備のほうへ行ってきました。

 この地に大津皇子の邸宅があったという伝承があります。

 大津皇子は謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれた悲運の皇子です。お姉さんが大来皇女といい、伊勢の斎王として、遠く伊勢の地に赴いていました。大津皇子の知らせを聞いて、きっとあわてられて急ぎ大和の地へと向かわれたことでしょう。 

 しかし、大来皇女がはるばる大和磐余の地に帰ってこられたときは、大津皇子はすでに亡くなっておられました。

 大来皇女の悲しみは大変なものだったことでしょう。

「うつそみの人なる我(われ)や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む」という歌が残っています。

 写真は春日大社(奈良市のそれではないです)です。太古の貴人の館跡などに神社が建てられていることが多く、もしかするとこの神社が大津皇子の終焉の場所かもしれず、静かな境内で私は短い大津皇子の生涯を思い描くのでした。

 

2019年3月2日撮影

 ひな人形街道下りから右手に折れ、路地に入ると観光の人たちがいない静かな細い道に入ります。その道をまっすぐに歩いていくと観覚寺(子島寺)の山門に行き当たります。森に囲まれたお寺はひっそりとしていました。この山門は高取城の二の門を移築したもので、荒法師弁慶のように外敵から仏様を守っているようでした。

 藤原道長が参詣された記述が道長の日記「御堂関白記」にみられます。昔は様々な人が参詣に訪れていたことでしょう。今境内は時間が完全に止まっている感じがし、平安時代に思いをはせることができる空間を作り出しています。

 昔、寺におられた和尚さんと話しをさせていただいたのを覚えています。和尚さんは様々な悩みのある人たちの話を聞く活動をされておられ、私もある悩みを聞いていただくために行ったことを、静かな境内で懐かしく思い出していました。「どっからきたん?」~中略~「心配することあらへん!」っと飾らない言葉でズバッといってくださり、安心したのを覚えています。

2019年3月2日撮影

 家内の故郷である高市郡高取町へ行ってきました。江戸時代、植村52万石の城下町では、毎年2月と3月にひな祭りが行われています。

 高取の城下町は、日本3代山城に数えられる高取城を仰ぎ見るようにゆったりと続く坂道があり、その両側の家々には昔から伝わるお雛様がこの時期に飾られています。

 写真のおひな様は飛騨高山に伝わるひな人形で粘土でできています。あまり見たことがないので写真に収めました。はるばる飛騨高山から来たのだと思うと親御さん、特にお母さんの娘と孫娘を思う愛に感動しました。

 遠くに嫁に出した娘を母はどんなに心配していたか。大事にしてもらっているのだろうか?病気はしていないだろうか?さまざまな思いが高取町のこの雛人形に込められているように思います。

他にも母の娘への愛をじわっと感じせてくれるお雛様がいっぱい鎮座されています。

 母の愛に触れたい方はぜひ行かれてはいかがですか。